実際的であること
あなたへ
こんばんは。今日は雪が降ると言われていたのに、こちらは雨が降ったくらいで終わりでした。そちらはどうですか?
外出予定のない休日の(しかも普段あまり降らない地域の)雪は、見慣れない景色が少し嬉しくて外を眺めたりするけど、その嬉しさの源泉は「どこかにたどり着かなくてはいけない」といったプレッシャーが無いからなのでは?と今このメールを書きながら思い至りました。
結局は「自らの自律性を損なわれなければそれでよい」みたいなわがままさに自分が支配されいてる気がして、ちょっとがっかり。
一方で、雪の白さや、音が吸収されてしんとした街の気配など、事象そのものも眺めている(はず)。きっとちゃんと見ている(はず!)。そんな経験した事象自体について、また今度のんびり交換できるとうれしいです。
さて、別の話。
会社が支援してくれるというので、先日から経営大学院のビジネススクールに3ヶ月間だけ通わせてもらうことになりました。毎回モデルケースと設問が示されて、講義当日までに予習アセスメントを作成し、その各自が考えた観点をもとに意見交換しながら学びを深める内容です。けっこうおもしろくやっています。
ただ、そんな場所で有効な言葉って、実際的であることが求められるんですよね。具体的で、現実を端的に表しており、重さを有していて、切れ味が機能するような。状況や内面の空気を輪郭として捉えたり、複数の人間の最大公約数となるようなあいまいさを敢えて持っているような言葉とは、多分別の手触りを帯びたものです。
そういえば先日Netflixでマーサ・スチュワートのドキュメンタリーを見ました。彼女は「そのときどんな気持ちだったかは興味がない」「『なにをしているか』が私にとっては重要」というようなことを言っていました。
「実際的であること」って偏在しているけれど、その人の中でのグラデーションはそれぞれ違って
いて、それでも社会の成員として多くの人間が機能している、あるいは機能するようにどうにかバランスをとっている。それを可能にしている社会の仕組みと、仕組みが許容している余白。あるいは自覚する/しないに限らず、みんなはどんなグラデーションの中で過ごしているのだろう。たまには、こんな話も一緒にできると良いなと思います。
では、また。
